ほんまでっかの言葉と女性の仕草の背景に潜む意味の世界
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仏教では人間の営みを、身口意の三つに分けています。
身は行動、口は喋り、意は心の動きという意味ですが、人間の営みをこのような三つの分類分けには古の仏教徒が深い瞑想からつかみ出した人間行動の真実に触れる知恵がみられます。
この三つは、それぞれ人間の無意識の深い次元にあるとされる阿頼耶識に貯えられると教えます。
そこでは、人間の身口意の行動がそのままそのまま貯えられるのではなく、意味の次元に還元されて貯えられるといわれます。
例えば、ほんまでっかという言葉、つまりここでいう口には、通常それに付随する女性の行動、つまりここでいう身、言い換えますと仕草が伴います。
そしてその二つを発露させた心の存在があります。
目に見える女性の仕草という行動も、ほんまでっかという耳に聞こえる女性の言葉も、見えない心の現れですが共通の面があります。
それは、女性の仕草は身体言語といえるもので一方のほんまでっかは発声言語で、共に言語ととらえることはできます。
言語は言うまでもなく意味を持ちます。
言語と意味は表裏一体のもので意味の乃言語は存在しません。
ほんまでっかという発声言葉、それに付随する女性の仕草と身体言語は、意味という共通の基盤に帰着できます。
その意味で人間の身口意は、意味の三つの発現形態とみなすことができます。
女性のほんまでっかという日常的仕草は、人間の行動は全て意味から成立しているという真実を照らし出すものです。